2015年12月25日金曜日

12/20、忘年会

メリークリスマス。
岡です。
もう12/25です。4年生は明日から年明けまで入構禁止期間に入る為、卒業制作も大詰めです。

さて、遅くなりましたが先日土屋スタジオの大忘年会が行われました。今年も歴代のOB・OG、その他諸々が集まっての楽しい会になりました。


学年を飛び越えて色々お話ししたり、4年生はお互いに意識を高めあったりなどいいリフレッシュになったと思います。


途中のビンゴ大会ではぼくら4年男子は一発芸をさせられたりなどいろいろあり、景品も充実していたこともあり、大盛り上がりでした。

(写真はインパクトドライバーを当てた4鈴木美緒さん)

そして最後の集合写真。逆光で顔が見えづらいのですがみんないい顔です。
卒業までのカウントダウンが本格化してまいりました。1日1日を無駄にしないように最後まで駆け抜けます。

それではみなさん、よいお年を!

2015.12.25

           

2015年12月15日火曜日

「私」を置く、「私」を広げる。

田中です。
卒制の提出まで1ヶ月きりました。
1月9日が卒制の提出です。
建築祭という学科の金銀銅賞を決める公開講評の日は1月16日です。


わたしの卒制は、
「ゆずや」という大学の近くにある共同アトリエ、課外活動の拠点、微妙に人の住んでいる木造平屋。そこに置ける「私」の領域の作り方、「みんな」の物に埋もれた部屋、それらをテーマにして制作をしています。

物も人も使い方も曖昧なこの「ゆずや」と向き合うために、わたしは「ゆずや」を「私の空間」をひたすら描いて描いて描いて、ものによって埋め尽くされた部屋を感覚で立ち上げる。それはなんとなく居た空間を分析するようで、実験みたいなもの。


以下は、スタディ模型や作業風景になります。




2015年12月5日土曜日

吉澤です。卒制です。

どうも吉澤です。

卒制では8号館の吹き抜けを使ってインスタレーションをつくります。
どんな感じかっていうと、、、

現代(イマ)を生きるとはどういうことだろうか。私は、情報過多に着目した。
朝起きて目覚めのコーヒーを飲むよりも早く世界中の情報を得られる現代。情報は溢れ取捨選択を常に迫られる。今必要なのはそれらの情報を識別する力(=メディアリテラシー)でである。すなわち多様な視点をもつことで、ある視点から正しく見えたことが別の視点から見ると間違いであることも分かってくる。
この「多様な視点をもつ」ことを主軸に空間と関わることとした。

8号館の吹き抜けは各階各面に開口が設けられているので主題との相性が良いように思われた。この吹き抜けの開口から糸を張り空間を表出させることにした。
開口を繋ぐ糸で浮かび上がる空間は、吹き抜けという巨大なボイドに対し様々な視点からのアプローチを促す。多様な視点をもち、それを自分の足を動かし体感することでそこに新たな解釈が生まれるのではないか。

って感じです。スタディはこんな感じに進んでます。

1/20模型
実際に張ってみた。

これから設置方法などを実寸で作りながら模索していきます。糸を渡すためにドローンを買ってみたけど操作が難しいので多分使わないです。

せっかくなので空撮してみました。よかったら見てください〜〜(^◇^)
https://www.instagram.com/p/-39FnZt7f3/?taken-by=tanuki501


12/5

校舎の吹き抜けに内部を溶かした発泡スチロールを架ける。その中を覗かせる。

発泡スチロールの内部を溶かしながら出来上がった奥行きのある空間は、時間の経過を表す。長く伸びたその空間は、時間の経過とは瞬間の連続であることを意味し、有機的な溶け方をした内部は無機的な外部と対比する。構造体を建築の一部と干渉させることにより、平凡な日常にスパイスを加える役目を担う✌︎✌︎






卒制

岡です。
12月に入ってしまいました。
昨日ゼミがあり、全員模型でもいいので卒制で何をするのかをこのブログにアップする、ということになりました。

ぼくは相も変わらずラップフィルムを使用した作品を制作します。
展示場所は工房201に壁を立てて、ホワイトキューブのようにして展示をします。
作品の概要は、ぼくの家の家具(ベッドや机やテレビなど)を一箇所にまとめて一つのヴォリュームをつくり、それをまとめてラッピングするというものです。







画像は椅子、ベッド、テーブル2つを巻き込んだスタディです。



家具は生活のイメージだと言い換えることができると思う。
生活のイメージが集合し、形態が変化することで、イメージのパーソナリティが徐々に消却されていき、そこには生活という概念だけが包み込まれる。
私たちが無意識に行う生活を、意味と無意味、在と不在の間で問うこの行為を、私はRemodelingと名付けることにした。

何もない部屋では生活が起こりません。でもそこに家具さえあれば生活は起こります。
しかしその家具が集合し、一つのヴォリュームになったらそれは生活と呼べるのでしょうか。
さらにそれをラッピングしてしまうことで、ぼくの家具だったということやそれが椅子であったのか机であったのかというパーソナリティも消失していきます。
しかし、そこにはやはり確実に、匿名性がどんどん高まりつつも、生活というものは包み込まれているのです。
カーデザイナーはmodelingという、大きなヴォリュームを削り出す作業で車の形を決定します。
形態は機能によって決定づけられるものです。
その決定づけられた「カタチ」をパーソナリティというイメージが曖昧な「モノ」の段階まで近づける行為を、Remodelingということにしました。





あとちょっとですが、頑張ります。

2015年11月3日火曜日

迫る

岡です。4,5ヶ月ぶりの更新です。
設Ⅳの提出が終わってからも気が抜けたようにブログの更新をしていなかったのですが久々に読み返したところ、このブログに書くことで振り返るものも多い気がするので久しぶりに書こうと思います。
現在ぼくは卒業制作に追われています。
芸術祭も終わり、気づけば11月。
展示場所は建築工房に決まりました。
工房を6人で割って使う予定ですが磯崎がドライエリアから工房に場所の変更をしたいということなので7人で使用することになるかもしれません。

ぼくの卒業制作のテーマは存在とイメージと認知です。
それだけ聞いてもよくわかんないな、と思うかもしれません。説明します。
まず卒業制作をぼくは設Ⅳを下敷きにして制作しようと考えています。
設Ⅳは高松次郎をもとに存在と不在ということをテーマにし、できたのが



これらの作品です。
椅子やテーブルにラップを巻くことで、ものの形態が変化して、そのものが持っている領域的な部分も存在として巻き込めるのではないか、と考えました。
これをまた別視点から眺めると、例えば椅子をラップで巻いていってもこの作品においてはまだ椅子として認知できるのです。しかし、それは本来の椅子の置き方を踏襲しておいているからで、一度それを逆さまにしておいてしまうと、途端に椅子というイメージは消え失せ、それが本来何者だったのかということはわからなくなってしまいます。
これはなにかというと、ヴォイドと椅子との境界線、輪郭というものが薄くなっているということなのではないでしょうか。
ぼくはラップを巻くことで椅子やテーブルの機能を奪いました。
椅子の座る、という機能が奪われたけれど椅子というイメージは残る。
形態は変化したけれど、イメージはギリギリ変わらない。

卒業制作ではこの効果を利用して作品をつくろうと思うのですが、いかんせんどうもものができません。具体的に作品が立ち上がらないのです。
存在というものの危うさというか、脆さ。少し手が加わるだけでなんなのか理解し難くなってしまう曖昧さ。それと同時にどんなに形態が崩されようがそこに残るイメージの強さ。
そんなことが表現できたらいいのかな、とも思っています。
あと2ヶ月後には提出ということで吐きそうだし泣きそうですが死ぬ気で頑張ります。

p.s.輪郭という言葉の感じの意味を調べて驚愕したのですが、「輪」はものの周囲を囲むものを指し、「郭」は囲われてできる空間、中身という意味でこれはそれぞれがソリッドとヴォイドを表しているのです。

輪郭についても考えています。

2015年6月23日火曜日

昨日は夏至でした。

梅雨が本格的にはじまるのかなと思っていたところ、天気予報とは違い今日も鷹の台は晴れています。

わたしは今回設Ⅳで雨をモチーフにしようと決めました。その雨で空間構成をしようと思います。
雨が降り続く様は、単調のようで少しずつ変化しています。それは模様のように見ました。
尊敬するアーティストに選んだ尾形光琳作の「燕子花図屏風」は一分の一で燕子花が描かれ、屏風の前を通って風景を見ています。
田原先生から「光琳の描く風景は八橋の燕子花。では現代の風景とはなにか」と聞かれて、風景をどう捉えるか考えたところ、わたしは現代の風景が雨の風景に行き着きました。
雨の世界はどこか現実感のないような世界で、眺めていて飽きません。
リアルな雨ではなくわたしの見える雨の風景を作りたいと思います。
いま、雨模様の型を作って試行錯誤中です。
吹き抜けから見える雨。ひたすら流れていてきれい。

雨の型を抜き、色を乗せてみた。


鈴木美緒

2015年6月22日月曜日


おはようございます。岡です
もう提出まで2週間を切りましたので、最近は制作に入っています。
そんな中で、ぼくは高松さんの意識の根底には不在と実在というものがあるのではないかと思い、それについて自分なりに解釈しようと試みています。
高松さんが不在をテーマに掲げているのは、不在をつくり出そうとしたり、不在に向かっていったりしたのは、そこから実在というものをたぐりよせたかったからではないだろうか、と思っています。
ものがもつ不安定な実在というものは、実在だけに目を当てていても不安定なままです。そこで、より不安定な不在に目を向けることで、実在はいくらか明確化するのではないでしょうか。
彼が影を描いたり、河原の石を数えたり、文字に文字だけの意味を乗せたのも、そういう試みだったのだ、とぼくは思っています。

そして、ぼくなりの表現をどうしようか、と考えたときに、ぼくはいま、ラップでなにかを巻こう、ということを考えました。
画像はラップで巻かれた椅子です。






透明で薄いラップを何重にも巻いていくと、中に入っていたものがだんだん見えなくなっていきます。
ぼくは、ラップでものを巻くことで、その実在を不在化しようとしました。
不在化していくと、ものは最初のフォルムから離れて、なんなのかわからなくなっていきました。
そうしていくうちに、それ自体の意味や機能が奪われて、存在感だけが増していく感覚に陥りました。
ラップを巻いて形がだんだん面化していくのは、椅子自体の存在領域を視覚化しているのではないかと思い始めました。

”存在”という言葉の意味を辞書で調べてみました。
そこには、”実態・基体など他のものに依存することなく、それ自体としてあるもの”、と書いてありました。
上記のことから考えると、それがそこに存在する、ということは、ほかの何にも依存しない、ということです。
本当にそうでしょうか。
椅子は椅子だけで存在し、人は1人で存在するでしょうか。
座る、という”行為”や、その周りの”空気”はそのもの自体の”存在”ではないのでしょうか。
”関係”は存在とは関係ないのでしょうか。
机と椅子は関係をもっていないのでしょうか。その存在は別個でしょうか。
何かと何かが隣り合ったとき、期待される”配置”や”気配”は存在ではないのでしょうか。
それぞれなのでしょうか。机と椅子の間にある空間は存在ではないのでしょうか。
もの、そのものが孕むその空間のようなものも存在なのではないでしょうか。

不在は存在している、というのが現在のぼくの中での結論です。

2015年6月20日土曜日

エスキスの日

タナカです。
今日はエスキスでした。
方向性を決めないとねっていう週でした。


もっていったのは
1.撮ってきた窓そのまま写真用紙に出力したの
2.窓のみを写真から切り出したもの
3.2のスケールを1/20に統一したもの
4.3をコラージュしたもの
5.3をなんとなく配置しその周りのファサードを描いたもの























田原さんと話してでてきたもの
・もうちょっと違った窓の素材が見たい。(音、一時間の観察)
・オブジェや壁面を田中がつくるのではなく、撮ってきた窓から読み取れる物語?を再編集するくらいにしたい。
・窓と窓に余白をもうけて想像の余地を与える。
・作品のかたちを決める明確なとっかかりが無いためもうすこし、
窓の内側にはらんだもの、家の内側と外側について考える。言語化する。
・自分の日常とのリンクをする、繋がる感じ!
箇条書きですがこんな感じ。

イメージは
窓からのぞく、その家の日常をストーリー(テキスト)化して、本来別の場所にある窓と窓をからませたい。みたいな。

そんな感じで帰ってきたあとに、なんとなくテキスト化もしてみないと分からんなってことで打ってみたり。

















もっと違う書き方もあるだろうからこれは色々やってみる。
とりあえず明日、音か、動画か、一時間くらい観察か、してきたい。

来週までにフィニッシュの形みえてないとやばい。展示場所候補も。あと2週間。
田原さんなんかもっとこういうこと言ったでしょ!とか私が忘れてたらコメントとかください。

タナカカエデ


2015年6月18日木曜日

タナカです。

先週のエスキスでは何個かスタディを持って行きましたが、
その中で一番しっくりくるなと思ったのが窓を撮ったものでした。

最初は隣の家の窓、
次はその隣の、道路の向こう側の窓。

人が映っていなくても、
なんとなくその家のことがわかるような、
なんとなくどういう人が住んでいるような。

そんな窓の表情を集めたとこまでが前回のエスキスでした。

そこから今週なのですが、
前回に加え素材を増やしに歩きにいったり、
土屋さんからおすすめ?されたヒッチコック監督の映画「裏窓」を見ました。

主人公の部屋の窓から見える世界で話が進み、向いの建物の窓から住人を観察する。
はじめのほうは観察する、
途中で窓の向こう側の住人と関わり始める、
最後には向こうの住人が主人公の部屋に入ってくる。

窓の向こうの見ていた人に見られる、
その感じが怖いなって思った。

私が歩きながら人の家の窓を撮っているとき、一番ゾクってするのがその瞬間だ。

こっちが見るのは良くても見られるのはなー、っていう勝手な気持ちになる。
しかもその勝手にこちらが観察対象としている側に。

まあもっと感想としても、
主人公が窓の向こう側で起きていることを勝手に推理したり、
窓の使われ方が日本とは違うのかなとか、
ありました。面白かったです。

出てくる建物とかも好き。
ベランダに布団しいて寝ちゃう夫婦とか、
犬をカゴに入れてロープで3階から降ろしたりとか、
作曲家の家の窓もいいな、
そんな窓が面してる中庭の空間も。


そんな感じでこの後もちょっといろいろやってみます。


タナカカエデ




とってきた窓たち





おそくなりました

山本です。

アーティストをジョゼフ・ターナーに決めました。ぼんやりとした中にうっすら風景と光が見える後期の作品が好きです。

前回は和紙にアクリル絵の具でにじみを描き、それを自然光に通してみる実験をしましたが、土屋先生と話をして、ターナーの絵のにじみにとらわれすぎていたように感じました。ターナーの描く光にもっと焦点をあてて見ようと思いました。

作品の方向性としては、自然光の表現をテーマに考えていこうと思います。
今考えているものは、透けるものを使っての表現です。素材を探すと同時にもっと手を動かしていけたらいいです。

2015年6月11日木曜日

全体と部分

岡です。

ロスコについて考えておりましたが田原さんと話し合った結果、本質的に好き、というのはやっぱり高松次郎なんじゃないか、ということで高松次郎について考えています。

高松さんは「全体」と「部分」を考えていた人だということがわかりました。
全体っていうのは世界、とか宇宙、無限みたいなキリのないもので、部分、というのは、人、とか家、柱、犬とか単純に考えれば、一個一個名詞を持って独立できるもののような気がします。

全体を掴みきることは不可能に近いと思います。そこで、彼はある一つの物体をこの世の全体、と仮定して、その物体の中身を掘ったり砕いたりしてできたカスのようなものを部分として解釈します。砕いたモノの中には何か使える形のもがあるかもしれませんし、何にも使えないものもあります。そうやって色々な姿を見せる可能性のあるものを表し、考えることで真の全体性を図ったのだろと思います。

木の単体

こんな風に全体を見るために部分を探る、という思考方法や、恣意性を排除するように偶然をつくるやり方、次元を行ったり来たりするやり方はものすごく数学的です。


高松さんが精力的に制作をしていたのが1960~70年代。日本は高度経済成長の真っ只中、万博やオリンピックが開催され、国際化、情報化がちょうど激化した時代だったと思います。
そんな情報がどんどん多く、速くなっていく中で、全体を知ろうとしたのではないか、と。
全体を知るために部分を用いる、と言いましたが、その時触れた部分の事も考えざるを得なかったと思います。

現時代で彼の作風を持ってくるとしたら、60~70年代よりも明らかに多く、速くなった情報について考えざるを得ません。
増えた情報や増えたメディアを使って、全体と部分、次元のこと、言葉と物の意味性を考えるしかないと思います。

ということで明日のエスキスではそういう思考を含め、実験をもっていきたいと思います。

最近エスキスの時間が短くて先生と満足に話せないと思うので、そのことについて話したいと思っていますし、先生がブログを読んでくれるように差し向けようと思っています。

それでは。



本日、入梅

こんにちは、今日は入梅です。
雨の季節になりました。
明日ゼミなので、進行状況を。

わたしの尊敬するアーティスト尾形光琳。
まずは、原寸の「燕子花図屏風」を展示スペースに貼って、本物の大きさを体感。
A3を103枚、六曲一双は大きい。
この屏風は作品の前を人が通っているときが一番美しいと言われており、歩いている足元に橋があるとされているため橋が描かれていない。燕子花の中を歩いているようだ。空間を考えて作られていてわたしも作品に取り込みたいところです。

花の中を歩くイメージで空間に作品を作りたいと思う。
生の花を使い、新鮮さを閉じ込めようと模索中です。

樹脂やマニキュア、スチのりで実験。押し花は作り中です。
6月ですし、紫陽花を使いたいなーと思っています。


なにかよい方法があったら教えてくださいー

鈴木美緒

 こんにちは万葉です。梅雨が始まったのですか?負けじとドライフラワーつくろうと思って吊るしてます。


  手を動かそう
ということで、最近はもっぱらエントリーシートばかり製作しています。いやもちろん設Ⅳの方でも動かしています。自然の色を持ってこよう!ってことで、武蔵美の中の植物と土で染めてみてます。 
わ〜全然想像と違う色出た〜

志村ふくみさんはある一瞬の情景を思いながら一夏製作したりするんですね。感情を色にうつす?ちょっとそういうのも考えていきたいと思います〜

2015年6月9日火曜日

大きな 水たまりに 飛び込んで 







べたついた 梅雨 
かきわけても 
かきわけても 
じっとり 張り付いて
おでこに 滴る

昨夜 降りだした雨で
田んぼから 溢れ出た水は   

タイヤから ペダルに  

        
足に冷たさを 感じれば もう  

漕ぐのは かんたんじゃあ ない


カエル の声が 聞こえる
膝まで 浸って 
せいいっぱい 息を すいこむ

あ カメラが 濡れた
けど もう 目の前は

水に 飲み込まれる


大きな 水たまりに 飛び込んで  

(調布)


今日も歩いてました。
いや、自転車でした。

先週のゼミは、ビジュアルをもってこいとのことで何人かは好きな作家の好きな作品をプリントしてのエスキス。

私のエスキスは、
フィクションとノンフィクションぎりぎりがやりたい、ってことはなんとなくテーマとなりそうです。

その為に何をどうするのか、
・物理的にその場に何か私がする(置いたり、描いたり?)。
・私の制度、ルールを決めて(変えて?)もう一度路上を見る、読みかえる。
・場所を決めて、物語を紡ぐ。
などが土屋さんと田原さんと話していて出ました。

そんなこんなで次のエスキスまでに、
5個ほどスタディ的な作品をつくっていくってなりました。

なので今日は自転車に乗って5年ほど前に住んでいた家の近くをぐるっと回ってきました。

前はあんなにきつかった坂が小さく見えたり、知らないものが建ってたり、なんか胸がぎゅーっとしました。多分コレが切ないって言うんじゃなかろうか。ぐあああってよみがえる、断片的な画。細かいことは覚えてないけど。

知らないまち、住んでいるまち、記憶のおぼろげなまち、全部ちがう気持ちになる。

タナカカエデ 

2015年6月6日土曜日

体を動かして作品を!!

昨日のゼミで話したように、次の金曜までに、全員、とにかく今頭の中にあることを、具体的な行動に起こして体を動かすように。
1日1つのペースで、作品を作って下さい。これはもちろん実験をすることなども含まれますが、次の金曜日には、それぞれが少なくても5パターンくらいの実験結果や作品、模型などなどビジュアル表現をプレゼンしましょう。

前に行った1日1制作と同じように、どんどん体を動かすこと。

もう6月に入って、あと1ヶ月もすると提出期限です。
今後のスケジュールのイメージをしましょう。

6/5-6/12 具体的な実験→方向性を仮決定
6/13-6/19 一つの方向性で実験→ブラッシュアップ+展示方法・場所などの検討
6/20-6/26 1/1スケールでの実験→本制作スタート
6/27-7/4 本制作→ブラッシュアップ→提出
7/5-7/10 ヴァーティカルに向けてまとめ

2015年6月4日木曜日

大山賢也 ft. Anish Kapoor & 大巻伸嗣 (Tsuchiya Radio Remix)

自分の好きな、影響を受けたアーティストを1人決める。これが思っていた以上に難しいのですが、文明の利器を駆使して調べていたところ言葉の壁にぶつかり、とある日本人アーティストに落ち着きそうでございます。ジパング最高。

自分が直感で好きだと思うものは大抵空間を広く使った五感をくすぐられるようなビジュアルアートが多い。最初に視覚、次に触覚、そして聴覚や嗅覚、時には味覚、嫌でも五感が刺激されるようなものである。

大巻伸嗣というアーティストは、子供の頃から街全体が遊び場だったという。家の屋根をつたって友達の家まで行ったり、道路でローラースケートをしたり。そんな少年時代の延長として今の作品があるのだと思う。遠くからただ眺めるだけの作品ではなく、実際に触ったり、作品の上に立ったり歩いたりすることで、鑑賞者の気持ちが自然に作品の中に入っていく。そうして、作品は「作品」として成立する。


そこにあるはずなのに普段は認識されていないもの、例えば空気や空間、または自分だったりもする。そういったものが、身体を介して見えてくる。アーティストが作った「きっかけ」の中に、実際に我が身を突っ込んでみて初めて、「認識」が生まれる。


いわば、「遊び場」なのである。オトナの遊び場。というと語弊があるが、オトナの遊び場、で間違っていない。多くを与えないシンプルな玩具を「きっかけ」として設置する。そしてあとは受け取り手にゆだねられる。それで受け取り手の心が動いたもんなら万々歳。それがオトナの遊び場、である。


大巻伸嗣のように、子どものときの遊び方は現在の感性、感覚に大きく関係しているのだと思う。小さな子は他人の目など全く気にしないで五感をフル稼働させて日々生きている。最高のアーティストである。最高から10年程経ってしまった今、最も輝いていた当時の感覚を思い出し、昇華させて制作に取り組んでいきたい。



挿入画像
1枚目 大巻伸嗣《Liminal Air Space-Time》
2枚目 大巻伸嗣《Liminal Air -descend-》
3枚目 Anish Kapoor
4枚目 Anish Kapoor《Cloud Gate》