2015年12月5日土曜日

12/5

校舎の吹き抜けに内部を溶かした発泡スチロールを架ける。その中を覗かせる。

発泡スチロールの内部を溶かしながら出来上がった奥行きのある空間は、時間の経過を表す。長く伸びたその空間は、時間の経過とは瞬間の連続であることを意味し、有機的な溶け方をした内部は無機的な外部と対比する。構造体を建築の一部と干渉させることにより、平凡な日常にスパイスを加える役目を担う✌︎✌︎






卒制

岡です。
12月に入ってしまいました。
昨日ゼミがあり、全員模型でもいいので卒制で何をするのかをこのブログにアップする、ということになりました。

ぼくは相も変わらずラップフィルムを使用した作品を制作します。
展示場所は工房201に壁を立てて、ホワイトキューブのようにして展示をします。
作品の概要は、ぼくの家の家具(ベッドや机やテレビなど)を一箇所にまとめて一つのヴォリュームをつくり、それをまとめてラッピングするというものです。







画像は椅子、ベッド、テーブル2つを巻き込んだスタディです。



家具は生活のイメージだと言い換えることができると思う。
生活のイメージが集合し、形態が変化することで、イメージのパーソナリティが徐々に消却されていき、そこには生活という概念だけが包み込まれる。
私たちが無意識に行う生活を、意味と無意味、在と不在の間で問うこの行為を、私はRemodelingと名付けることにした。

何もない部屋では生活が起こりません。でもそこに家具さえあれば生活は起こります。
しかしその家具が集合し、一つのヴォリュームになったらそれは生活と呼べるのでしょうか。
さらにそれをラッピングしてしまうことで、ぼくの家具だったということやそれが椅子であったのか机であったのかというパーソナリティも消失していきます。
しかし、そこにはやはり確実に、匿名性がどんどん高まりつつも、生活というものは包み込まれているのです。
カーデザイナーはmodelingという、大きなヴォリュームを削り出す作業で車の形を決定します。
形態は機能によって決定づけられるものです。
その決定づけられた「カタチ」をパーソナリティというイメージが曖昧な「モノ」の段階まで近づける行為を、Remodelingということにしました。





あとちょっとですが、頑張ります。

岡

2015年11月3日火曜日

迫る

岡です。4,5ヶ月ぶりの更新です。
設Ⅳの提出が終わってからも気が抜けたようにブログの更新をしていなかったのですが久々に読み返したところ、このブログに書くことで振り返るものも多い気がするので久しぶりに書こうと思います。
現在ぼくは卒業制作に追われています。
芸術祭も終わり、気づけば11月。
展示場所は建築工房に決まりました。
工房を6人で割って使う予定ですが磯崎がドライエリアから工房に場所の変更をしたいということなので7人で使用することになるかもしれません。

ぼくの卒業制作のテーマは存在とイメージと認知です。
それだけ聞いてもよくわかんないな、と思うかもしれません。説明します。
まず卒業制作をぼくは設Ⅳを下敷きにして制作しようと考えています。
設Ⅳは高松次郎をもとに存在と不在ということをテーマにし、できたのが



これらの作品です。
椅子やテーブルにラップを巻くことで、ものの形態が変化して、そのものが持っている領域的な部分も存在として巻き込めるのではないか、と考えました。
これをまた別視点から眺めると、例えば椅子をラップで巻いていってもこの作品においてはまだ椅子として認知できるのです。しかし、それは本来の椅子の置き方を踏襲しておいているからで、一度それを逆さまにしておいてしまうと、途端に椅子というイメージは消え失せ、それが本来何者だったのかということはわからなくなってしまいます。
これはなにかというと、ヴォイドと椅子との境界線、輪郭というものが薄くなっているということなのではないでしょうか。
ぼくはラップを巻くことで椅子やテーブルの機能を奪いました。
椅子の座る、という機能が奪われたけれど椅子というイメージは残る。
形態は変化したけれど、イメージはギリギリ変わらない。

卒業制作ではこの効果を利用して作品をつくろうと思うのですが、いかんせんどうもものができません。具体的に作品が立ち上がらないのです。
存在というものの危うさというか、脆さ。少し手が加わるだけでなんなのか理解し難くなってしまう曖昧さ。それと同時にどんなに形態が崩されようがそこに残るイメージの強さ。
そんなことが表現できたらいいのかな、とも思っています。
あと2ヶ月後には提出ということで吐きそうだし泣きそうですが死ぬ気で頑張ります。

p.s.輪郭という言葉の感じの意味を調べて驚愕したのですが、「輪」はものの周囲を囲むものを指し、「郭」は囲われてできる空間、中身という意味でこれはそれぞれがソリッドとヴォイドを表しているのです。

輪郭についても考えています。

2015年6月23日火曜日

昨日は夏至でした。

梅雨が本格的にはじまるのかなと思っていたところ、天気予報とは違い今日も鷹の台は晴れています。

わたしは今回設Ⅳで雨をモチーフにしようと決めました。その雨で空間構成をしようと思います。
雨が降り続く様は、単調のようで少しずつ変化しています。それは模様のように見ました。
尊敬するアーティストに選んだ尾形光琳作の「燕子花図屏風」は一分の一で燕子花が描かれ、屏風の前を通って風景を見ています。
田原先生から「光琳の描く風景は八橋の燕子花。では現代の風景とはなにか」と聞かれて、風景をどう捉えるか考えたところ、わたしは現代の風景が雨の風景に行き着きました。
雨の世界はどこか現実感のないような世界で、眺めていて飽きません。
リアルな雨ではなくわたしの見える雨の風景を作りたいと思います。
いま、雨模様の型を作って試行錯誤中です。
吹き抜けから見える雨。ひたすら流れていてきれい。

雨の型を抜き、色を乗せてみた。


鈴木美緒

2015年6月22日月曜日


おはようございます。岡です
もう提出まで2週間を切りましたので、最近は制作に入っています。
そんな中で、ぼくは高松さんの意識の根底には不在と実在というものがあるのではないかと思い、それについて自分なりに解釈しようと試みています。
高松さんが不在をテーマに掲げているのは、不在をつくり出そうとしたり、不在に向かっていったりしたのは、そこから実在というものをたぐりよせたかったからではないだろうか、と思っています。
ものがもつ不安定な実在というものは、実在だけに目を当てていても不安定なままです。そこで、より不安定な不在に目を向けることで、実在はいくらか明確化するのではないでしょうか。
彼が影を描いたり、河原の石を数えたり、文字に文字だけの意味を乗せたのも、そういう試みだったのだ、とぼくは思っています。

そして、ぼくなりの表現をどうしようか、と考えたときに、ぼくはいま、ラップでなにかを巻こう、ということを考えました。
画像はラップで巻かれた椅子です。






透明で薄いラップを何重にも巻いていくと、中に入っていたものがだんだん見えなくなっていきます。
ぼくは、ラップでものを巻くことで、その実在を不在化しようとしました。
不在化していくと、ものは最初のフォルムから離れて、なんなのかわからなくなっていきました。
そうしていくうちに、それ自体の意味や機能が奪われて、存在感だけが増していく感覚に陥りました。
ラップを巻いて形がだんだん面化していくのは、椅子自体の存在領域を視覚化しているのではないかと思い始めました。

”存在”という言葉の意味を辞書で調べてみました。
そこには、”実態・基体など他のものに依存することなく、それ自体としてあるもの”、と書いてありました。
上記のことから考えると、それがそこに存在する、ということは、ほかの何にも依存しない、ということです。
本当にそうでしょうか。
椅子は椅子だけで存在し、人は1人で存在するでしょうか。
座る、という”行為”や、その周りの”空気”はそのもの自体の”存在”ではないのでしょうか。
”関係”は存在とは関係ないのでしょうか。
机と椅子は関係をもっていないのでしょうか。その存在は別個でしょうか。
何かと何かが隣り合ったとき、期待される”配置”や”気配”は存在ではないのでしょうか。
それぞれなのでしょうか。机と椅子の間にある空間は存在ではないのでしょうか。
もの、そのものが孕むその空間のようなものも存在なのではないでしょうか。

不在は存在している、というのが現在のぼくの中での結論です。

岡

2015年6月20日土曜日

エスキスの日

タナカです。
今日はエスキスでした。
方向性を決めないとねっていう週でした。


もっていったのは
1.撮ってきた窓そのまま写真用紙に出力したの
2.窓のみを写真から切り出したもの
3.2のスケールを1/20に統一したもの
4.3をコラージュしたもの
5.3をなんとなく配置しその周りのファサードを描いたもの























田原さんと話してでてきたもの
・もうちょっと違った窓の素材が見たい。(音、一時間の観察)
・オブジェや壁面を田中がつくるのではなく、撮ってきた窓から読み取れる物語?を再編集するくらいにしたい。
・窓と窓に余白をもうけて想像の余地を与える。
・作品のかたちを決める明確なとっかかりが無いためもうすこし、
窓の内側にはらんだもの、家の内側と外側について考える。言語化する。
・自分の日常とのリンクをする、繋がる感じ!
箇条書きですがこんな感じ。

イメージは
窓からのぞく、その家の日常をストーリー(テキスト)化して、本来別の場所にある窓と窓をからませたい。みたいな。

そんな感じで帰ってきたあとに、なんとなくテキスト化もしてみないと分からんなってことで打ってみたり。

















もっと違う書き方もあるだろうからこれは色々やってみる。
とりあえず明日、音か、動画か、一時間くらい観察か、してきたい。

来週までにフィニッシュの形みえてないとやばい。展示場所候補も。あと2週間。
田原さんなんかもっとこういうこと言ったでしょ!とか私が忘れてたらコメントとかください。

タナカカエデ


2015年6月18日木曜日

窓

タナカです。

先週のエスキスでは何個かスタディを持って行きましたが、
その中で一番しっくりくるなと思ったのが窓を撮ったものでした。

最初は隣の家の窓、
次はその隣の、道路の向こう側の窓。

人が映っていなくても、
なんとなくその家のことがわかるような、
なんとなくどういう人が住んでいるような。

そんな窓の表情を集めたとこまでが前回のエスキスでした。

そこから今週なのですが、
前回に加え素材を増やしに歩きにいったり、
土屋さんからおすすめ?されたヒッチコック監督の映画「裏窓」を見ました。

主人公の部屋の窓から見える世界で話が進み、向いの建物の窓から住人を観察する。
はじめのほうは観察する、
途中で窓の向こう側の住人と関わり始める、
最後には向こうの住人が主人公の部屋に入ってくる。

窓の向こうの見ていた人に見られる、
その感じが怖いなって思った。

私が歩きながら人の家の窓を撮っているとき、一番ゾクってするのがその瞬間だ。

こっちが見るのは良くても見られるのはなー、っていう勝手な気持ちになる。
しかもその勝手にこちらが観察対象としている側に。

まあもっと感想としても、
主人公が窓の向こう側で起きていることを勝手に推理したり、
窓の使われ方が日本とは違うのかなとか、
ありました。面白かったです。

出てくる建物とかも好き。
ベランダに布団しいて寝ちゃう夫婦とか、
犬をカゴに入れてロープで3階から降ろしたりとか、
作曲家の家の窓もいいな、
そんな窓が面してる中庭の空間も。


そんな感じでこの後もちょっといろいろやってみます。


タナカカエデ




とってきた窓たち