おはようございます。岡です
もう提出まで2週間を切りましたので、最近は制作に入っています。
そんな中で、ぼくは高松さんの意識の根底には不在と実在というものがあるのではないかと思い、それについて自分なりに解釈しようと試みています。
高松さんが不在をテーマに掲げているのは、不在をつくり出そうとしたり、不在に向かっていったりしたのは、そこから実在というものをたぐりよせたかったからではないだろうか、と思っています。
ものがもつ不安定な実在というものは、実在だけに目を当てていても不安定なままです。そこで、より不安定な不在に目を向けることで、実在はいくらか明確化するのではないでしょうか。
彼が影を描いたり、河原の石を数えたり、文字に文字だけの意味を乗せたのも、そういう試みだったのだ、とぼくは思っています。
そして、ぼくなりの表現をどうしようか、と考えたときに、ぼくはいま、ラップでなにかを巻こう、ということを考えました。
画像はラップで巻かれた椅子です。
透明で薄いラップを何重にも巻いていくと、中に入っていたものがだんだん見えなくなっていきます。
ぼくは、ラップでものを巻くことで、その実在を不在化しようとしました。
不在化していくと、ものは最初のフォルムから離れて、なんなのかわからなくなっていきました。
そうしていくうちに、それ自体の意味や機能が奪われて、存在感だけが増していく感覚に陥りました。
ラップを巻いて形がだんだん面化していくのは、椅子自体の存在領域を視覚化しているのではないかと思い始めました。
”存在”という言葉の意味を辞書で調べてみました。
そこには、”実態・基体など他のものに依存することなく、それ自体としてあるもの”、と書いてありました。
上記のことから考えると、それがそこに存在する、ということは、ほかの何にも依存しない、ということです。
本当にそうでしょうか。
椅子は椅子だけで存在し、人は1人で存在するでしょうか。
座る、という”行為”や、その周りの”空気”はそのもの自体の”存在”ではないのでしょうか。
”関係”は存在とは関係ないのでしょうか。
机と椅子は関係をもっていないのでしょうか。その存在は別個でしょうか。
何かと何かが隣り合ったとき、期待される”配置”や”気配”は存在ではないのでしょうか。
それぞれなのでしょうか。机と椅子の間にある空間は存在ではないのでしょうか。
もの、そのものが孕むその空間のようなものも存在なのではないでしょうか。
不在は存在している、というのが現在のぼくの中での結論です。
岡
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