ロスコについて考えておりましたが田原さんと話し合った結果、本質的に好き、というのはやっぱり高松次郎なんじゃないか、ということで高松次郎について考えています。
高松さんは「全体」と「部分」を考えていた人だということがわかりました。
全体っていうのは世界、とか宇宙、無限みたいなキリのないもので、部分、というのは、人、とか家、柱、犬とか単純に考えれば、一個一個名詞を持って独立できるもののような気がします。
全体を掴みきることは不可能に近いと思います。そこで、彼はある一つの物体をこの世の全体、と仮定して、その物体の中身を掘ったり砕いたりしてできたカスのようなものを部分として解釈します。砕いたモノの中には何か使える形のもがあるかもしれませんし、何にも使えないものもあります。そうやって色々な姿を見せる可能性のあるものを表し、考えることで真の全体性を図ったのだろと思います。
木の単体
こんな風に全体を見るために部分を探る、という思考方法や、恣意性を排除するように偶然をつくるやり方、次元を行ったり来たりするやり方はものすごく数学的です。
高松さんが精力的に制作をしていたのが1960~70年代。日本は高度経済成長の真っ只中、万博やオリンピックが開催され、国際化、情報化がちょうど激化した時代だったと思います。
そんな情報がどんどん多く、速くなっていく中で、全体を知ろうとしたのではないか、と。
全体を知るために部分を用いる、と言いましたが、その時触れた部分の事も考えざるを得なかったと思います。
現時代で彼の作風を持ってくるとしたら、60~70年代よりも明らかに多く、速くなった情報について考えざるを得ません。
増えた情報や増えたメディアを使って、全体と部分、次元のこと、言葉と物の意味性を考えるしかないと思います。
ということで明日のエスキスではそういう思考を含め、実験をもっていきたいと思います。
最近エスキスの時間が短くて先生と満足に話せないと思うので、そのことについて話したいと思っていますし、先生がブログを読んでくれるように差し向けようと思っています。
それでは。
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